小池遊郭について

小池遊郭について(富久有の歴史)
有楽町のルーツ

「富久有」の所在地、豊橋市有楽町。この町の変遷を辿る上で、戦前・戦後に存在した歓楽街の歴史を抜きにして語ることはできないだろう。
戦前、小池町の一部だった同地が有楽町と改称されるのは昭和34年のことである。
昭和初期まで、現・有楽町一帯は田畑の広がる土地であったが(図.1)昭和12年、突如この地が造成され「南新地」という芸妓街が誕生する。
これが有楽町のルーツである(図.2)。

明治後期、豊橋市南部の渥美郡高師村(愛知大学豊橋キャンパスを中心とする一帯)に陸軍第15師団の衛戍地が設置された。
当時、市街地から師団へ向かう街道沿い(現・小池町、現・福岡町、現・富本町等)には師団関係者向けの商店、旅館、料理店、飲食店などが建ち並び、商業地が形成されていった。その中には宴席に招かれる芸妓とその居住地でもある芸妓置屋も存在していた。

昭和12年、豊橋市は道路網整備のために芸妓置屋、料理店の業者に立ち退き・移転を求めた。
そして柳生川南岸の約8000坪の農地の中に新しい歓楽街が造られることとなる。これが前述の「南新地」である(図.3)。
記録によると、同年8月の「南新地」開設時にあたり、小池町より料理店と芸妓街、併せて約30軒の業者が移転したという。

豊橋市街地図(昭和元年)豊橋市図書館所蔵
図1. 豊橋市街地図(昭和元年)
豊橋市図書館所蔵
最新豊橋市街地図(昭和14年)豊橋市図書館所蔵
図2. 最新豊橋市街地図(昭和14年)
豊橋市図書館所蔵
昭和12年8月南新地の開業広告『参陽新報』
図3. 昭和12年8月、南新地の開業広告
『参陽新報』
東田遊郭・小池町への移転

明治43年、豊橋市街東部の現・吾妻町に東田遊廓が開設された。最盛期には貸座敷56軒、娼妓約500人という規模で、年間36万人の遊客を集めるなど戦前・豊橋市の名所の一つであった(図.4)。しかし、昭和12年の日中戦争開戦以降、市内の歓楽街は営業自粛を求められ、次第に規模を縮小していった。
昭和19年7月には軍の命令により土地、建物を接収され、主だった貸座敷業者達は移転を命じられる。この移転地となったのが現・有楽町であった。

戦前の東田遊廓の様子 (個人蔵)
図.4 戦前の東田遊廓の様子 (個人蔵)

南新地には東田遊廓の業者が合流する形で歓楽街が再編され、有楽町は軍人や軍関連産業の工員等の為の慰安所として利用された。
昭和33年1月3日の豊橋新聞の記事によると、歓楽街は軍の慰安所として空襲が激化する中でも変わらず営業を続けていたという記述がある。
この場所は小池遊廓(あるいは有楽荘か?)と呼ばれていたようだが、その正式な名称は不明である。

移転翌年の昭和20年6月、豊橋空襲により大きな被害を受けた市内と同様に小池遊廓(有楽荘)も焼夷弾により焼失。
『激動・昭和の豊橋』には「この空襲で丸焼けとなり4,5軒を残すのみだった」という記述がある。
この証言を残したのは木戸護氏(富久有、現オーナーの父)である。

戦後の特飲街(有楽荘)

戦後、小池遊廓(有楽荘)の復興は早かった。進駐軍兵士の慰安所として利用されるためだ。管轄の警察は木材や布団を優先的に配給したとされており、慰安所の設置に「公」の積極的な関与があったことがうかがえる。
進駐軍兵士の慰安所への利用はごく短い期間であったようだが、その後、日本人向けの特飲街(赤線)「有楽荘」へと移行し、営業を継続した(図.5)。

現・有楽町の空中写真(昭和21年・国土地理院)
図.5 現・有楽町の空中写真(昭和21年・国土地理院)

名古屋市警察本部の調査によると「有楽荘」は最盛期の昭和28年に特飲店45軒、給仕婦185名の規模であった(図.6)。歓楽街として賑わいを見せたが開設から約10年後の昭和31年に売春防止法制定、昭和32年12月に廃止されることとなった。12月末には組合の解散式を行い、給仕婦たちの借金を棒引きにした上で全員実家へと帰したという。「有楽荘」廃止後、各業者は旅館、料理店、飲食店などに転業、新たな歓楽街としてスタートを切った。

昭和33年の有楽町の様子(全住宅案内図帳)
図.6 昭和33年の有楽町の様子(全住宅案内図帳)
富久有と春本

「富久有」の前オーナーは木戸護氏。木戸家は戦前、東田遊廓で貸座敷「春本楼」を経営していた。前述の通り、昭和19年に軍の命令によって小池町(現・有楽町)へ移転した貸座敷業者の1軒であった。
小池町移転後は遊廓時代と同じ「春本」という屋号で特飲店を経営。
当時「春本」の所在地は「富久有」の通りを挟んだ向かいの区画であった。昭和32年末の有楽荘の廃止後、旧特飲店「吉廼家」の権利を買い取り、昭和40年に現在の富久有の建物が新築された。

 昭和33年以降の住宅地図を確認すると「富久有」の場所には「酒場 富久有」「小料理 富久有」等の記載がある。
店の玄関先には数年前まで、愛知県の風俗営業等取締法施行条例(昭和34年)で店頭への掲示が定められていた「料理店」というプレートが残っていた(図.7)。この条例によると料理店とは「主として和風設備の客室を設けて客席で客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業で、芸ぎ(芸妓)その他の遊芸人を招くことができるもの」とされている。
このことから「富久有」は風営法上、芸妓を招くことができる料理店(料亭)としての営業を許可されていたということになる。

 「富久有」は2018年に大規模なリノベーションを行い、現在は宿泊施設、あるいは多目的スペースとして三味線教室、落語会、ホームコンサートなどに活用される建物となっている。

風営法施行条例に規定される「料理店」のプレートが店頭に掲示されていた(平成30年)
図.7風営法施行条例に規定される
  「料理店」のプレートが店頭に掲示されていた(平成30年)

引用

『豊橋市街地図』 豊橋市図書館蔵、
『参陽新報』 1937年8月7日
『最新豊橋市街地図』 豊橋市図書館蔵、1939年
『全住宅案内図帳』 住宅協会、1958年
『豊橋新聞』 1958年1月3日
『豊橋市史 第三巻』 豊橋市、1983年 
『激動・昭和の豊橋』 豊橋座談倶楽部、1991年
『東海遊里史研究2』 土星舎、2022年
『(豊橋名所)東田遊廓ノ景』 
『愛知県統計書』 愛知県